昭和47年09月23日 秋季霊祭



 (途中から)
 と言うことが有り難いことではないかと。そういう心掛けを持って信心をせよとと仰せられますけれども。人を助けるということ。教祖様が仰る、人を助けるということは、信心のない人、または薄い人が、そこに、お金がないならお金がないと言うて難渋をしておる。そんなら、お金を持っておる人が、貸したり与えたりしてあげる。そういう意味で、助かるというのではないと。信心させて頂く者の、人が助かるほどしの信心と言うのは、どういう信心だろうかと。人が助かるほどしの信心。
 今日の場合、今日の秋の人間だけではない、御霊様が助かられる。御霊様でも助けることが出来るという信心。そういう信心を頂きたい。そこで信心を頂きたい信心が分かりたい。真の信心とは真の道とはと、お互いが追及してやまない。そういう思いを愈々募らせて、真の信心を求めて、信心をさせて頂くのでございます。ただ今福本先生が、えらい元気の良いお話をしておりました。それは何を求めてここにやってきたかと。
 所謂真の信心、真の信心と言われるけれども、真の信心とはこれだと、真の信心とはこうだと、なかなかそれは言葉では表せない。そこで真のおかげを受けておると言う事。真のおかげを受けておるということ。ですからそういう真のおかげを受けておる、真の御比礼が輝いておるという教会を、あっちこっち遍歴をしておるわけです。ここではちょうど、光橋先生が同期だったらしゅうございますので、その縁でこちらに修行に来らして頂きたいという願いの元に、おかげを頂いております。
 今まで大変な厳しい教会で一年余り修行しておる。所がここの場合は昨日もここへ出て来てからはずはざには、長くおれんのですから、少しでもお話を頂きたいと言う訳でここへ出てきました。ここで修業すると言う事は、自分が修行しようと思うたら、なんぼでも出来る。しかもこげな修行はいかん、そげなこつはいかんと言うとじゃない。もう自由奔走、自分の思うままの信心修行が出来る。かと言うてここではずるけようと思うたら、なんぼでもずるけられるんだ。誰もどう言いてがないから。
 ところがやはり、お道の教師でも志しておるのでございますし、人が助かることのために、生涯命をかけておる人達ですから、やはり違います。夜中に、例えば、出て行っても良し。朝はゆっくり休んどっても良い。そこが散らかっておろうが、それはただ、横眼で眺めて行くだけでも良い。そういう中で修業するのですから、見やすいようで、なかなか難しいという話をしております。厳しい教会に行きますと、朝は何時に起きて、こうしてああして、さっきも話しておりました様に。
 マッチ一本の軸でも、御粗末御無礼しちゃならないと言うて躾をされる。ここではねそういう信心の心掛け、今もお話しておりましたが、私は先生が来ました時に丁度玉水の湯川先生のお話を思い出して、なるほどおかげを受ける先生は、お徳を受ける先生は違うなぁと、教導が違うなぁと思うた。その事を思い出しておる所へ丁度やって来たから、玉水の湯川先生のことをお話した。当時やはり日本一現在でも、日本一的な教会でございますけれども大した御比礼であった。
 その先生がお手洗いの前に、お布巾が三日間も落ちたままであった。そこで修行生を呼び集められてから、沢山のことですからね何十人の修行生。お前達はね、布巾が助けてくれ、助けてくれと言うてあの叫びをお前たちには聞こえんのか。あの布巾の声を聞き得ずして、どうして人が助けられるか、と教えられたと言う事です。金光様の御信心はそうです。生かすことなんです助ける事だ。と言う事は生かす事だという事になるのです。だからそれは始末倹約をすると言う事だけではない。
 例えばここのお水を見てびっくりしておることですけれども。ああして懇々と湧いておる。それを合楽では生かしておると言う事になるのです。これを私の信心でいくと。限りなく天地が恵んで下さる。その限りなく恵んで下さるのを粗末にするんじゃない。参拝をして来る一人一人がそれで魂を清め、手口をゆすぐだけではなくて、魂を清めることのために、台先番の前に立たせて頂いて、手を洗うお口をゆすぐ。
 心を清めたい魂を清めたいという、それがいつ代えたっちゃ分らんごたる、生温るか水が、もしあそこへ、始末倹約してから、ちょこっとばっかり入っとるというなら、とても口をゆすぐという気もしますまい。これ魂を清めようという心も起こりますまい。ここでは、皆さんが、あそこで帰る時に、必ずあれを御神水として、また帰りに柄杓で頂いて行かれる人たちが沢山増えてきた。それは限りない天地のお恵みを限りなく受けて、止めてそれを生かしていこうという、これは私の信心なんです。
 そういうところが違うちょっと違う合楽の信心は。先日からそれこそ今申します様にしよううしようと思うたら、なんぼうでもここでは修行が出来る。そげな事はいかんばい、そげな修行はいかんとは言わん。この頃から弘道先生が、ちょうど無期限の断食に入っておる。中々出来ないですよ、いつ神様からお許し頂くか分らんのですから。神の声ども聞き損のうたらいつまでっでん、ご飯が食べられんち言うことですから。一週間なら一週間十日なら十日と、日にちを切ってせにゃ無期限の修行に入る。
 丁度八日目でした。私がお知らせを頂いた。そしたら上野先生が、今日は弘道先生が、お食事を許されることを、今日の御祈念に頂きました。あんたも頂いた私も頂いておるから。けれども今言うたらがたっと心が緩んではならんから、今晩御祈念が済んで、ちゃんとお粥さん作ってやって、すぐ頂けるごと冷やしてやっときなさい。御祈念が済んでから頂く。今日は一日修業させようというようなことでした。断食しなければならん。むしろどちらかと言うと、私は表行はあんまり好きではない。
 先日から末永先生が、ちょうどやっぱり八日でしたか、九日でしたでしょうか。断食、やっぱ無期限の修行さして頂いておる。許されておかげ頂いて、それから二、三日しましたら、只今また無期限で、一食修行を思い立たせて頂いておる。あの若さで食べても食べても足りない。とてもお前は一食しか食べられんぞなんて言ったら、普通でならばとても、たとえば雇われておって、そう言う事を主人が言うち言うなら、だぁれも勤める者も、又はそこに働くという者もないでしょう。
 ですからこれは私が、何年間か通っとることですから一番知っとる。お食事を一椀のお粥さんでしてけれども頂く時にです、もう明日のことが楽しまれる。そうですよ本当に腹一杯、三度三度ご飯頂いとるなんてん、こげな勿体ない話はないくらいです。御食事を許されて頂く時にです。明日もまたこの時間になったら食べられると思うて、明日んこと楽しむくらいにあるです。そういう血の出るような修行をさせて頂いてでもです、真の信心が分りたい、本当に私自身が助かりたいという、あの姿を見たらですね。
 本当に泣かずにおられませんです。私は昨日からちょっとこう目をつぶったり、金光様を真剣に唱えると涙がこぼれてくる。所謂涙がこぼれて来る程しに有り難いのです。ここで座らせて頂いておってから、もう長い間一食修行しておりますから、顔つきも痩せて参りましたし、それからしゃんとしとるとが、ちっとうつむき加減にね、そしたら前で見ましたら本当に信心ちゃ、見やすい見やすいちさっき言いよったけれど。
 しかし本当言うたら、脇から見よたら信心ちゃなんと難しい事じゃろうかと言うごとあるけれども。本人はそれを喜びそれを楽しみ、それを愈々真の信心を分らせて頂く事のためならばという、食べるとか寝らんとかという様な事は、問題の外にしておると言う事が尊いです。その尊い姿に触れて、感動します。人間は人を助ける事が出来るというのが有り難いじゃないかと、教祖様は仰るけれども。ただ信心のない者でも、助けれるほどしの助けるというのは、信心でいう助けると言う事にはならないのだ。
 重い荷物を持っちゃるけん、私が一つ持ってあげましょうと言うのは、助けた様であるけれども、それは助ける事ではない。それは、ただ親切をしたというだけの事なのだ。本当の助かりには繋がらない。そこで本当に人が助かる事の為に、信心をさせて頂くのであるならば、先ず自分自身が助からなければならないと言う所からです。火の行も水の行もいとわないという信心が、しかも有り難く元気な心で、そういう修行に取り組む事ですらが出来るのです。
 私は昨日も丁度御霊様のお礼をさせて頂きました。夕べは夕方から本当に集まってくる集まってくる。色んなお寿司とかね、色んなその御霊様の前夜にお供えしなければならないような物が集まってくる。それを全部お供えさせて頂いて、それから冷たい氷を浮かせたお水を沢山、それからたぎる様なお番茶ですけれども、お茶とお水をとをお供えさせて頂いた。あの世この世の違いと言うのはです、私どもがこの世では水が飲みたいと言や、水を飲むことが出来ます。
 お茶を飲みたいと思や、お茶が飲めますけれども。あの世ではお便所に行きたいと思うても、例えばですよ、お便所に行かれない。この苦しみと言や、大変な苦しみだと思うですね。小便に行かんなんとに、便所がないちゅうなら、もうこうこしゅうごとある。もうそれこそ、あの小便でも、辛抱しよるとですね、終いにゃ、血の小便が出るごとなるです。私どもは昔ですね、上滝さんが亡くなられて、その直後から百日間の修行をさせてもらった。それは朝から夕の四時までは立たないという修行であった。
 ですから勿論便所に行きませんでしたけれども、行かんちゅうことじゃない。やっぱ行たい事があるけれども、やっぱり四時までは辛抱させて頂いた。その頃からどうも下履きが真っ赤になるからと思うとったら、血が出るように成った位にあるです。そんなに例えば苦しい思いに、言わば喘ぎ苦しんでおる御霊たちが、どれくらい居るか分らない。折角お供えをさせて頂くならば、冷たいお茶熱いお茶をと思うて、お供えをさせて頂く。これは十四、五年も前でしょうか。もっとなりましょう。
 椛目の時代に横が樂室でしたから、御霊様のお祭りの時には、お祭りを済ませて頂くと寝る時間がないですから、四畳半の樂室でちょっと仮寝をさせて貰う。まだ眠ってるとは思わんのにそれこそ何千何万とも分らない程しの人の声が聞こえてくる。丁度ご本部参拝をさせて頂いて、あの何万の人が大祓いを上げる時に目をつぶっておるとはぁっという声が、一つになって聞こえてくるです。会堂一杯に漲ってくる様にですね。
 それこそ、どれだけ居るか分らないほどしの人が、何かを、それぞれに言うておる、その声が聞こえてくる。それをよくよく、一人一人聞かせて頂くとです。当時の椛目に縁を頂いておったという御霊様たちがです。もうそれこそどれだけじゃい分からん、本当にこちらの先生のおかげで助かる事が出来ると言うて、ひしめき合うての喜びの様子を見せて頂いたことがある。私共は例えばこの世で魂を清めておかないと。
 あの世ではそういう途端の苦しみに合わねばならん、地獄に行かにゃならんと仏教的に言うなら。そしてそこから永劫苦しみ抜かなければならないという、仏教の教えになりますけれども。金光様の御信心は、そうではない。縁を頂いて金光大神のお取次ぎを、あの世でも頂かせてもろうて、合楽に御神縁を頂いておる人が、取次者私のお取次ぎを頂いて、助かろうと言う事になれば、御霊様でも、助かることの出来る道が開けると言う事を、今度は新たなこととしてそのことを頂きました。
 私は、そのことを知らなかった。そういうことは。ただ御霊様に真心をこめて、霊祭かなんかの時にです。真心込めてすると、途端の苦しみの御霊であってもです、天地乃親神様の御許しを頂いて、遺族の者の真心を受けることが出来る。その日だけは、おかげが頂けて、また元のところに帰っていかなければならないというふうに感じておった。ところがそうではない。
 そういう縁を頂いて、たとえば御理解を頂き、御教えを頂いて、金光大神御取次の働きというものを、あの世でも受けることが出来て、そこから助かっていく道を、御霊ながらも頂けるということはです。真に有難いお道であるなと思わせてもらう。それにはです、本当に助かっておる人が、助けなければ助けることは出来ません。自分自身が助かっておらずして、助ける取次が出来るはずがない。
 私は今朝御祈念が終わってから、そこの手洗いにやらせて頂いた。そしたら菊が新しく、花瓶にこう入れてあったけれども、一、二本だけが、皺枯れてしまって、花はしゃんとしとるけれども、葉が皺枯れてしまってる。あらどうしてじゃろうかと思って、全部引き抜いて見たところが、その二本だけは、水に浸かっていなかった。この辺まで水の入ってるとへ、この辺のところで止まってる。成程是じゃ枯れるはずだと思うです。いかに天地乃親神様がおかげを下さろうと言うてもです。
 そのお恵みに浴しなかったら、生き生きとしたおかげや働きになってこない。それと同じことです。だから私は今朝からの御理解に申した。天地金乃神様と言う事は、この御教えの中にはね、人間は、人を助けると言う事が出来るという事は有難いことではないかと。だから人を助けられることの出来る事を楽しんで、そのことを有り難いと心得て信心せよと。牛やら馬では出来ない。牛やら馬では、自分自身を助かる道を知りもしなければ、それを行ずることも出来ない。人間だけはそれが出来る。
 人を助ける事を出来る。結局金光大神を通して、天地金乃神様はいかに天地金乃神様でも、人間を直接助けなさると言う事は出来ないという事である。自分は一人では助けきらんという事を暴露しておられるような御理解ですよね。そこで人間に求め賜うておられるのです。それを教祖金光大神に願われておることは、此方の信心で世の中に難儀な氏子を取次助けてやってくれという、神頼みになって来たわけです。そこで金光大神自身が助かられることのために、神様は、あらゆる難行苦行を求められた。
 そしてそれこそ生神金光大神という、どちらへ向いてもどちらへ転がしても、有り難いという答えしか出てこないというほどしの心の状態を頂かれた。金光大神ご自身が助かられた。そこで、金光大神のお取次ぎを頂くということによって、取次助けられるという道が開かれたのである。天地金乃神様ではだからこそ氏子あっての神、神あっての氏子とお説き給うのだと、私は今日思うた。
 だから私どもが縁を頂いた限りです、金光大神のお取次ぎを頂いて、おかげを受けることもさることながら、お取次ぎを頂いて、真実私が助かることのためにです。信心修行をしなければいけないかということが分かります。そしてその信心修行がです。もし真の信心が分るなら、真の人になれるなら、真の道を歩いて行く道を指し示して下さるならばです。どのような修行も厭いませんというところから、飲まず食わずも、また火の水の行も、有り難いということになってくるのです。
 それを合楽ではそういう信心修行も、それぞれにして貰いながら、又はさせながらそして是は絶対だ、間違いがないという焦点を指し示しながら、合楽はおかげを頂いておるという気が致します。そりゃ一生難行苦行の中で一生、とうとう終わられて、そして終いには断食を始めてです。とうとう、だぁれもお供えするものがなくて、日干しになられたという先生が、この近所におられます。ですからそれはね真のこと、真実のこと本当におかげを受けておる人の姿というものは、やはり見なければ分らんのだ。
 そしてそのおかげを受けておる、いわゆる有難い人。いわゆる此方金光大神、金光大神の、教えられたことをです。私どもが行じた上でそういう修行も、又させて頂かなければならんということが分る。そこでです、私どもが助かる焦点というのを、ここではあらゆる角度から、色々に教えられるわけです。成り行きを大事にしていけ。その成り行きを大事にして行けということの中にです。段々稽古をさせて頂くうちに、さっきの福本先生の話じゃないですけれどもです。
 布巾の声が聞こえてくるようになると。お金の声が聞こえてくるようになるということ。だから、そのお金ならお金を、大事にしなければならない。同時に、そのお金を生かすことを覚えさせて頂くということ。大事にすると言うて、箪笥の中にちゃんと直しておくとか。只、銀行の中に入れて鍵かけとくとかという様なもんじゃない。大事にするということは、それを生かすことなんだ。
 その生かす事のコツ合いを覚えさせて頂く所からです。合楽で限りないおかげを、ささやかながら、皆さんに見てもらっておるわけであります。だからこの辺のところがね、垢ぬけして来にゃいけません。物を生かすと言う事、始末倹約するという意味だけではない、合楽で言ってることは。それを成り行きを大事にさせて頂いておるうちに、全てが御事柄であるということが分り、御物であると言う事が分かって来て、最近ではその御事柄を合掌して受けて行こうという風に言われておる訳であります。
 今朝二時半に休ませて頂いて、三時十五分には起こさせてもらう。ですから十五分進ませてあるから、三時半でチンが鳴るごとなってる。起きると三時十五分に起きったことになるのである。そしたら誰の声か分らんけれどもね、三時半ですよと言う声が響いてきた。はっと思うて、起きたら、誰もおらん。家内は次の間でそれこそ前後不覚に寝ておる。はぁ、今のは神様だったなと、例えばそういう神様が、身近に働いておって下さるという実感をです。
 合楽では感じさせて頂けれる道を教えて頂いておるように思います。成り行きを大事にすると言う事はそういうです、そこに神の声を聞き、そこに神の姿を見る事が出来るということ。話を聞けば成程、天地金乃神様と言う事はそういう神様だ。成程頭で分ることも出来る。心で感ずることも出来るけれどもです、それが実感として、神様の御守護この様に寝た間も神様の働きを受けておるんだという実感が、そのまま有難いという実感になってくるのだと、私は思うのです。
 頭で分っただけではいけんのだ。金光様の御信心は、実際に自分自身が、神様の御守護を受けておる、これが印だというものをです。日々刻々味合わせて頂けれる道を教えて頂いておる。そこから、自分の助かって行く道が開けて来る。先日からこちらの会堂造営が、着々としてあのように進んでおる。もう日にちが迫っておるから、大工さん方にそんなことを言うのは無理だけれども。
 霊祭の時だけは、ほかの仕事をしてくれ、ガッチャンヒッチャン言わせんごたる事をしてもらいたいからと言うて、高橋さんにお願いしておった。だから出来ておるもんと思うておった。ところがお祭りが始まると、ガッチャン、ジャンジャン叩いておる訳です。あら、こりゃ大分話が違うな。それで表へ出た。そしたら大きな筒の音がガンガンと響いてきた。その瞬間私は思うた。神様おかげを頂いて、それこそ鎚音も高らかに、今、ご造営の真っ最中でございます。
 この様子を神様も御覧じませ。御霊様も見て下さい。聞いて下さいというような心の状態にならせて頂きましたらね。その鋸の音やら叩いてる音がです、有り難い音に響いてくるようになった。にくじのごとここのお祭りが始まったら、ガッチャンヒッチャン言わせ力と言う様な心では、神様にいかに通わないかということが分かる。その時点時点をです、有難いという答えを出させて頂く稽古をさせて頂くと言う事が信心。それだけ分るんですけれども、常日頃にです例えば出来るならばです。
 本気で断食もしてみろう水行もしてみろう。朝参りが出来んならいっちょ朝参りもさせて頂こうと言う様な信心修行が出来てからでなからなければ、分っただけではその実感は頂けないと私は思います。分っておっても是は有難い事は分っとるけれども、有り難いと思われない。修行不足なんですそのようにして、私ども自身が助かる事の為にです、私自身が助かる事の為におかげを頂いて、助かったその限度というか度合いで言わば人を助ける働きをすると言う事が、有難いと心得て信心しろとはその事なんだ。
 自分自身が助かっておらずして、人が助かる働きが出来るはずがない。教祖様は御理解に、人を助けることが出来るのは、有難いと心得ると仰せられるけれども。人を助けるどころではない。それこそ御霊様でも、御霊様がその気になって下さるならば、その気に御霊様がなって下さらなければ駄目なんだ、やっぱ。人間でも同じでしょうが。様に御霊様がその気になって下さるならば、御霊様をも永劫苦しみの御霊と言った様な事ではなくて、御霊の位も進み、安心の御霊として。
 おかげの頂けていけれる、そういう働きも、私どもは出来ると言う事をです。御霊様でも助ける事が出来るというほどしの信心を頂いておると言う事が、有難い事ではないかというふうに、今日は聞いて頂きたいと思う。同時に私共がです。自分自身が助かるおかげを受けると言う事は、力を受けることなんだ。光を受けることなんだ。だから目の前が真っ暗になるような事であっても、心の光がです心をいつも暗くすることが要らんで済むおかげが頂かれる。力はあるからどのような物でも持つことが出来る。
 耐える力というものが、頂けるということがです。そのままあの世にも持って行け、この世にも残しておけるというお徳なんだ。それで私共はです。遺族にすがらなければならないという御霊ではなくて、遺族のために子や孫のためにです、働きの出来るくらいな御霊のおかげを頂いておかなければならない。そこんところに精進を惜しんではならないという風に思うのです。魂を清める事だ。そして自分が助かることなんだ。そしてそれをあの世にも持って行って、遺族にすがるのではない。
 遺族にでも助かる道を教えてやられるぐらいの力は頂きたいもんだと、念願致しております。皆さんもそうでなからなければいけない。一週間ほど前でした。椛目の内田さんが、いつもいつも御霊様のお祭りと言や、あれこれと何時も同じようなものばかりのお供えしかせんから、今年は御霊様が一番喜んで下さるお供えをさせて頂きますから、どうぞ、夢の中にでもお知らせ下さいて言うて、頼んで休まれた。
 そしたらね、ほんの休んだと思うたら頂かれたのが、大きな籠にね、いっぱいキュウリと茄子が、半々ににいれてあるお知らせを頂かれた。キュウリ野菜の。それから茄子を半々に頂かれた。それで今日は、キュウリと茄子をお供えしようち、そういう意味じゃないですよね。勿論ここで御理解を頂いておる方ならば、分かられるように。キュウリというのは、久しい利という事である。いわばあの世でも助かることが出来る、この世でも助かることが出来る、永久に助かっていけるというのは、お徳なんだ。
 そこから生まれてくるのが安心なんだ。キュウリというのは、そういうあの世にも持って行け、この世にも残しておけるというほどしの徳なのだ。茄子というのは、あれは紫。紫の色を、ここでは安心と頂く。いわゆる日々を喜びと安心の生活が出来ると言う事をです。御霊様は、どのように願っておられるか分らない。御霊様自身が真実助かってはいないにしてもです。金のないところに、金は借りに行かれないように。お徳があるところ、力のあるところにしか、お願いするということは出来ないでしょう。
 あそこには金がない事が分っておるところに、金借り行くもんは誰んおらんでしょう。貸してくれるかどうか分らんけれども、あすこなら間違いなしに金があるというところでなからなければ、金を借りに行くことが出来ないように。御霊様が助けを求めておられてもです。内田さんの御主人なら御主人としましょうか、それをお父さんと言うても良かろう、お母さんと言うても良いけれども。内田峰子、峰子さん助ちくれと言うても、峰子さん自身が力を持たなかったら、どうにも出来んじゃないか。
 だから峰子さんあんたが力を受けてくれ、徳を受けてくれるということが、何をいうても御霊の一番のお供えであり、願いであるというお知らせを頂いておる。信心を頂くということがです、神様も喜んで頂くならば御霊様も、それを切に願い切っておられるということ。そして御霊様たちも、その力によって、明るい世界にも出たい。または安心の御霊としてのおかげも頂きたいという願いを、持っておいでなのでございますから。そういう意味においてでも、私どもは力を受けなければなりません。
 光を受けなければなりません。同時に、私どもはです。あちらへやらせて頂いたら、あの世にも持って行けれるものを作っておかなければならん。そして、遺族の者にすがるのでなくて、遺族の者が間違いよったら、お気付の一つぐらい頂かせ得るくらいな力。困っておるなら、そこに救いの手を差し伸べてやれれる程しの御霊。たとえば教祖様をはじめ、私どの初代、先覚の先生方の、おかげを受けておられるという姿がです。その先生の御名を唱えることによって、助かるでしょうが。
 だから先生でなからなきゃ出来んていうことはありません。お道の信心者、信奉者なら誰でも受けられる道が、ちゃんと開いてあるのです。だからその道を、私どもは聞かせてもらい、その道を歩かせてもらうそういう精進を本気でさせて頂かなければならんと言うことになるのです。いよいよ、記念祭記念祭と申しておりましたがもう本当に目の当たりに、その記念祭が近づいてまいりました。
 皆さん、何とはなしに、ゾワゾワゾワゾワ、とにかくここへ来てみると、秋永先生じゃないけども、仕事のあることあること。あれもせんならん、これもせんならん。だから、誰にでんお願いせんならん。先ほど行ったら、あそこんところで、障子をいっぱい剥いできてから、なんか書いてある。何ち言う字じゃろうかと思うたら、この障子をきれいに剥いでから、泥を落として、綺麗にして下さいと言う意味のことが書いちゃる。誰か御用頂きに来た人に頼んであるわけなんです。
 だから、合楽では、そういう状態の時ですから、ただ、記念祭にお参りをさせて頂いて、ただ有難かったのぅと言うだけではなくて。その記念祭を迎えるまでが、記念祭だという心持ちでです。本気で思いを込めさせてもらう。または、あらゆる意味でのです、五体での御用も、いよいよさせてもらわなければならない。いろんな、御用分担表が出来ております。けども、たったあれだけのことです。あれだけの人数です。ですから、あれだけの人数で出来るはずがありません。
 ですから、あれには書いてなかけん、私だん知らんと言ったようなことではなくてです。お互いが、どうぞ、私も御用に使うて下さいというような信心を、記念祭を通して頂きたい。そして記念祭が、賑々しく出来るということだけが、私は、昨日、忍び草の受け持ちを、むつ屋の信司さんが致しております。まだ何もかにも、見当が付いておらんごたる風です。だから、一辺信司さん、あんたが暇な時、高橋さんが暇な時、車がね、そるけん、私も行ける時に、とにかく急々に時間を作ってくれないか。
 そして、大体見当を付けてこうじゃないか。これこれこれという検討を付けて来て、そしてその中から、一番良いものを選んで行ったらどうだろうかと言うようなことで、昨日午後から夕方まで、久留米をあっちこっち回わらせて頂きました。色々おかげで、見当もつきましたが、目に見えるものは、どういうことかと言うと、これを金光様にお託しよう。これもお土産になるごとあるなというような物を、小さい千円か二千円位なのもんじゃあるけれども、それを沢山いろいろ買わせて頂いた。
 本当にね、それを思うだけで、胸がワクワクするです。どうぞ皆さん。信心は自分の思いと行動力を持ってするものです。ただ思うとりますだけじゃいかんのです。それを見たら、止むにやまれないものが、そこに滲み出てくるほどしのです、私は信心を頂きたいものだなと思います。今日の御霊様のお祭りで、私は本当に有難いと思ったことは、今日は、ちょうど休日であるということもでしょうけれども。みんなが家族を挙げて、ご参拝が非常に目立った事でございましたね。
 私は、これでなからなければいけないと思う。どうぞ記念祭にはそれこそ皆さんが、いわゆるあちらにもあれだけ、いわばあちらにも百畳敷き、ここにも百畳敷きですから、いうなら二百畳がです。割れんばかりに信者氏子が集まるということが、私どものそれが願いじゃないけれども、そのような御比礼も頂きたいということであるならばです。もう今からボチボチ準備をしておかなければ、出来んのじゃなかろうかと思うのです。そして、共々に、五年祭の記念の御祭りの御比礼に浴したいと思います。
 二十九日は生誕祭。ここで七十以上の方たちをお招きして、いろんな演芸今年は久留米が当番でありましてから、色々御心配下さってあります。ですから教祖生誕祭は、お年寄りだけが参る日のごと思うてから普通参って来ん。教祖生誕祭と言うのは信者一同が、それこそその日の喜びをです。今日の良き日を壽てという信者一同が合集まってのお祭りでなからなければいけないと思うです。だからそういうお祭りも控えておることです。どうぞ、一つ信心に一つ、つうから打ち込むと言う事なんです。
 あの仕事この仕事に追われておるなんて、そう言う事もです信心の中にひっくるめられておるものなんです、その御用というのは。だから信心が先でなからなければならない。その中に自分達の御用はあるのですから。そういう神の用を足しゃ氏子の用は神が足してやると仰る程しのおかげも体験させて頂きたい。今日は御遺骨室が解放されてお灯りが灯されております。どうぞ沢山の御遺骨が皆さんとの出会いを、心から待っておられるような気がするんです。どうぞ帰りにあちらに回って、お参り頂きたいと思います。
   どうぞ。